実は忍者じゃない?忍者・服部半蔵の真実!
えっ、服部半蔵は忍者でしょ?
忍者とも言えるし、忍者じゃないとも言えるんです。
どういうこと?
「服部半蔵」は一人ではない、ということです。
?????
分身の術?いっぱいいるぞ「服部半蔵」
おそらく日本で、いや、世界で一番有名とも言えるリアル忍者「服部半蔵」。
しかし、「服部半蔵」は一人ではないということをご存知でしたでしょうか?
それというのも、服部家では当主が代々「半蔵」という通称を名乗っていたからなのです。
そんな「忍者の頭領・服部半蔵」の本当の姿を追ってみましょう!
すべてはここから始まった!初代服部半蔵保長
初代服部半蔵こと服部保長(はっとり・やすなが)は、伊賀国花垣村(現在の三重県伊賀市)出身。
元々は伊賀国(現在の三重県西部・上野盆地一帯)に住む服部氏族(ご先祖さまが一緒だよ、という血縁集団)のひとつ、千賀地(ちがち)家の生まれです。
当時、伊賀国には千賀地家と同じ服部氏族の「百地(ももち)家」「藤林(ふじばやし)家」があり、この三家はあわせて「伊賀の三大上忍」と呼ばれていました。
上忍とは、依頼主からお金をもらって部下の忍者を派遣する社長みたいなものです。
そんな忍者派遣会社千賀地家の社長だった保長ですが、実際は狭い伊賀国でライバル会社が二つ(百地家、藤林家)もある貧乏ぐらし。
そのため、「おらこんな村いやだ!」と一族を引き連れて伊賀を飛び出し、室町幕府12代将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)に仕えることにします。
この頃から、名字を旧姓の「服部」に戻し、服部半蔵保長を名乗るようになります。
しかし、時は戦国時代。
世は乱れ、室町幕府の権威はだいぶ失墜していました。
そこで、さすがは忍者というべきか、目ざとい初代半蔵はさっさと室町幕府に見切りを付けて、
三河国(現在の愛知県東半部)の松平清康(まつだいら・きよやす)という武将に仕えることにします。
この松平清康、何を隠そうあの徳川家康のおじいちゃんなのです!
松平清康は三河国を武力で掌握しブイブイ言わせていたので、初代半蔵の目から見ても、いい就職先が見つかったと思ったのでしょう。
しかし、家康のおじいちゃんこと松平清康さん、家臣に殺されてしまいます。
ちなみにおじいちゃんと呼んでいますが、清康は亡くなった当時まだ24歳くらいだったようです。
戦国時代はおそろしいですね……。
そんなごたごたがあったせいか、初代半蔵が三河国に移ってから何をしていたのかは、よくわかっていません。
初代服部半蔵は忍者だったんだ!
そうですね。しかし、初代服部半蔵は服部保長さんじゃないよ!という説もあるんです。
どういうこと?
同じ人?違う人?隠されし初代服部半蔵正種
初代服部半蔵保長さんですが、諱(いみな。死んだ後に呼ばれる名前。死んだ後の名前なので生きてる時に呼ぶと失礼にあたる)が資料によって保長になったり、正種になったりしています。
昔の人だしそういうこともあるよね、ということで、一般的には保長=正種で同じ人と考えられていますが、
「いやいや、違う人だよ」という説もあるのです。
その理由としては
・本来長男が継ぐべき家督を、五男・正成(下記で説明する二代目服部半蔵)が継いでいる。
・長男・保俊も次男・保正も普通に服部家で育ち、そのまま徳川家の旗本となっているので、なぜ五男・正成が家督を継いだのかわからない。
・長男・保俊、次男・保正ともに父・保長の「保」の字を継いでいるのに、家督を継いだはずの五男・正成は「保」の字を継いでいない。
以上のことから、服部保長と服部正種は別人で、服部正種が初代服部半蔵であり、2代目服部半蔵正成の父である、というものです。
なんか、結構説得力がある気がする……。
そうですよね。
結局、同じ人なの?違う人なの?
はっきり言って、昔のことなのでよくわかりません!
そんな!?
誰が初代服部半蔵か……。それすらもわからない。まさに忍者ミステリー!
えぇ~~~!!??
「服部半蔵」と言えばこの人!でも、忍者じゃない?二代目服部半蔵正成
二代目服部半蔵こと服部正成(はっとり・まさなり)は天文11年(1542年)、三河国伊賀(現在の愛知県岡崎市伊賀町)出身。
ちなみに、伊賀は伊賀でも忍者の里である伊賀ではありません。
忍者の里である伊賀は伊賀国(現在の三重県西部・上野盆地一帯)にあたります。
ややこしいですよね。
なんでも、三河国伊賀は、伊賀国から神社を持ってきたのが地名の由来という説があるそうです。
さて、三河国伊賀生まれの正成くん、ちっちゃい頃から筋骨たくましい力の強い子供だったそうですが、6歳の頃にお寺へ預けられます。
しかし、9歳の頃、「坊主になんかなりたくねえ!」とお寺を飛び出してしまいます。
その後、数年間なにをしていたのかはよくわかっていません。
弘治3年(1557年)、三河宇土城(上ノ郷城)攻めに参戦。
夜襲により戦功を立て、徳川家康から褒美として盃と槍を与えられたそうです。
その後、正成は家康に仕える武将としていくつもの戦で戦功をあげ、「徳川十六神将(徳川家康に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた16人の武将をたたえた呼び名)」の一人に選ばれるまでになります。
また、槍の使い手として有名で、敵味方から「鬼半蔵」と呼ばれ恐れられていました。
「忍びの家」でも俵家当主・俵壮一(演:江口洋介)が槍を使って戦うシーンがあります。
忍者が槍?と思った方もいるかも知れませんね。
おそらく、壮一が槍を使うのは、「二代目服部半蔵正成」を意識してのものだと考えられます。
ちなみに、正成が家康からもらった最初の槍は所在不明となっています。
もしかしたら、壮一が使っている槍こそ、家康からもらった槍なのかも知れません。
この人が有名な「服部半蔵」なんだね。
そうです。ただ、正成は父親が伊賀国出身というくらいしか忍者と関わりがありません。
なんで、忍者の頭領と言われてるんだろ?
それには、とある歴史的な事件が関わってきます。
えっ、なになに?
家康最大のピンチ!歴史的逃亡劇「神君伊賀越え」
天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長が明智光秀軍に襲撃され、自害するという歴史的大事件が起こります。
世にいう「本能寺の変」です。
本能寺の変が起こった際、家康は正成を含む少数の家臣と堺(現在の大阪府堺市)に滞在していました。
信長自害の報告を受けた家康はうろたえます。
少ない家臣だけではとても明智軍から逃げることはできないと思い、「信長様を追ってわしも腹を切る!」とまで言い出しています。
そんな家康を家臣がなんとか説得し、伊賀国経由で家康の本拠地・三河国まで逃げ帰ることになりました。
しかし、当時伊賀国は反織田信長勢力の支配地だったのです。
何故そうなったのかというと、本能寺の変が起こる1年前、天正9年(1581年)に織田信長が伊賀国を攻め、非戦闘員含め3万人(!?)の住人を殺害した「第二次天正伊賀の乱」という戦いがあったからです。
そういったわけで、信長派の家康が無事に伊賀国を通ることは難しい状況でした。
しかし、三河へ帰るには伊賀国を通るしかない。
どうするべきか……。
そんな時、「わたしが何とかしましょう!」と名乗り出たのが正成です。
正成は伊賀国の忍者達と交渉し、家康一行を護衛してもらうことに成功します。
道中、別の勢力(一揆勢)といざこざがあって正成が死にそうになったりしますが、伊賀忍者達に守られて、家康はなんとか三河へ逃げ帰ることができたのでした。
もし仮に家康が殺されていたり、三河へ帰還できていなければ、その後の歴史は大きく変わっていたでしょう。
まさに歴史的な逃亡劇「神君伊賀越え」。
その立役者こそが、二代目服部半蔵正成だったのです。
忍者の頭領「服部半蔵」誕生!
さて、無事に三河に戻れた家康は、伊賀越えの際に護衛してくれた忍者三百名余りを、徳川家の家臣団「伊賀同心」として召し抱えます。
その際、正成を伊賀忍者達の指揮官としました。
そうです、現代にも伝えられる「忍者の頭領・服部半蔵」の誕生です!
しかし、今まで述べてきた通り、正成自身は元から徳川家康に仕える武将の一人であり、伊賀国の忍者ではなかったのです。
自分が有名な忍者として後世に語り継がれていると知ったら、正成はきっとびっくりするでしょうね。
正成すごい!
「服部半蔵」の名に恥じない大活躍ですよね。
だから服部半蔵が代々忍者のリーダーになったんだね!
いいえ、実は違うんです。
えっ……!?
しくじり半蔵?俺みたいになるな!!三代目服部半蔵正就
偉大な二代目の後を継ぎ、三代目服部半蔵となったのが正成の長男:服部正就(はっとり・まさなり)です。
父・正成と同音異字というから、ややこしい親子です。
正就は、父・正成が病死したことにより、21歳の時に服部半蔵の名前と伊賀同心を継ぐことになります。
すれ違う心 伊賀同心との確執
三代目服部半蔵として伊賀同心の指揮官となった正就ですが、実は二代目の頃から服部半蔵と伊賀同心の間には確執があったのです。
その理由としては、
・初代服部半蔵保長が伊賀を出ていった人物であること
・そのため、伊賀国における服部半蔵の家格は自分たちよりも下であること
・自分たちは徳川家に雇われただけで、服部家の家来になったわけではないこと
などでした。
そういったわけで、伊賀同心として家康の家来になった忍者たちは、服部半蔵が自分たちのリーダーであることを苦々しく思っていました。
正就、やらかす
こじれた関係の正就と伊賀同心、そしてとうとう、両者の確執を決定づける事件が起こってしまいます。
慶長9年(1604年)、江戸麹町にあった服部家の屋敷が火事で焼失してしまいます。
正就は屋敷再建のため、伊賀同心に普請(家などの建築・修繕・維持を行うこと)の手伝いを命令します。
しかし、このことに伊賀同心の一部がブチ切れ。
「なんで正就の屋敷の普請を俺たちがやらなきゃいけないんだ!」と幕府に訴えたのです。
こうして、正就と伊賀同心は詮議(捜査、取り調べ)を受けることになります。
結果から言うと、この訴えについて正就はなんの処分も受けていません。
しかし、詮議の最中、正就がとあるやらかしをしてしまうのです。
詮議中のある日、身内から病人が出たので、正就は見舞いに行くことにしました。
見舞いの帰り道、何者かが正就の家来を突き倒し、刀を抜いて向かってきたため正就が相手を斬り殺すという事件が起こります。
翌日、正就は事件を老中(江戸幕府の政務を統括する最高職)に報告します。
正就が犯人を斬り殺したことについては、事情が事情なのでお咎めなしでした。
しかし、詮議を受けている最中に私用で夜出歩くのはいかんよ、ということで、正就は改易(所領・所職・役職を取り上げること)を申し付けられてしまうのです。
江戸時代、厳しすぎる……。
そんなわけで、三代目服部半蔵正就はあっけなく忍者の頭領としての役目を解かれることになります。
正就のその後
慶長19年(1614年)、大坂の陣が始まると、正就は手柄を立てて自分の不始末をお詫びしたいと訴え、徳川軍に加わることを許されます。
しかし、翌年の慶長20年(1615年)5月7日、天王寺口の戦いの最中行方不明となってしまいます。
戦死したのか、それとも何らかの理由で自分から姿を消したのか。
三代目服部半蔵正就の本当の最期を知るものは、誰もいません。
その後の服部半蔵
服部半蔵が忍者集団である「伊賀同心」の指揮官だったのは、意外なことに三代目服部半蔵正就の代までです。
正就の後、服部半蔵の名前は弟である正重(まさしげ)が継ぐことになります。
しかし、正重は伊賀同心の指揮官としての役目は継いでいません。
この四代目服部半蔵正重も兄と同じく改易されることになり、最終的に桑名藩(現在の三重県桑名市)に仕えることになります。
その後、代々の服部半蔵たちは桑名で暮らすことになります。
服部半蔵の子孫たちが大活躍!Netflixオリジナルドラマ「忍びの家」の情報も是非ご覧ください。